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革新的取り組みで、日本の近代産業を築いた世界遺産「富岡製糸場」

「富岡製糸場と絹産業遺産群(Tomioka Silk Mill and Related Sites)」は、群馬県富岡市の旧富岡製糸場 、および伊勢崎市・藤岡市・下仁田町に点在する養蚕(ようさん)関連の史跡を主題とした文化遺産で 、2014年6月に世界遺産として正式登録されました。

既存の世界遺産には産業分野の遺産も数多く含まれますが、養蚕・絹産業そのものに焦点をあてた物件は他に存在しません。とくに遺産の名称にもある「富岡製糸場」は、日本初の“工場の世界遺産”として、また、世界でも類を見ない近代的な製糸工場跡として注目されています。

新政府が誕生して間もない1872(明治5)年に開業し、日本の近代化と絹産業の発展に大きく貢献した富岡製糸場。今回は、1世紀以上にわたる製糸場の歴史を振り返りながら、その革新的な取り組みや特色 、世界遺産登録に至るまでの経緯について解説します。

官営の模範工場として操業をスタート

明治政府が群馬県富岡に設立した富岡製糸場は、生糸(きいと)を生産する日本初の本格的な器械製糸工場として、1872(明治5)年10月4日に操業を開始。ちなみに「生糸」とは、蚕(かいこ)の繭(まゆ)か らつくられる絹糸で、絹織物・シルク製品の材料として古くから珍重されていました。

江戸末期の開国後、この生糸は日本の主要な輸出品となっていましたが、生糸生産地のフランス・イタリアで蚕の病気が大流行したことを受け、日本からの輸出量が一気に拡大。一方、海外需要の急増にともなって国産の粗悪品が横行し、日本製の生糸は国際的な評価を落としていました。こうした時代背景のなかで、富岡製糸場は生糸の品質改善や生産性向上、技術者育成などを行う「官営模範工場」としての役割を担っていたのです。

フランスの技術を導入した富岡製糸場の建物や設備はその当時、世界でも最先端・最大級の規模を誇っ ていました。約5万5000平方メートルの敷地内には、長さ約140メートルの操糸場(そうしじょう)やレンガ造の繭倉庫が建てられ、全国から集められた工女(工場で働く女性工員)は、およそ500人にもおよん だといいます。また、体の小さな日本人向けに改良した最新の操糸器や、日本の気候に配慮した製糸工程を導入し、良質な生糸を量産化する近代的な工場システムを確立していきます。

西洋式の先進的労働管理システムを導入

■勤務時間は1日8時間程度(昼休み・休憩時間あり)で、日曜・祝日は全休。年末年始と夏期には、各10日ほどの長期休暇もあり。

■仕事の熟練度によって「一等工女」「二等工女」などの階級が割り当てられ、それに応じて給与が支払われる能力給制度を導入。

■勤務時間を記録する「タイムレコーダー」を導入し、各人のシフトに合わせた労働管理・給与管理を効 率化。

■作業しやすい洋装の制服を貸与。

■食費・寮費・医療費などは製糸場が負担し、読み・書き・裁縫などを教える夜学や、余暇の娯楽提供など、教育・福利厚生面にも配慮。

こうした西洋式の労働管理システムは、のちに日本全国の工場や企業に広まり、産業の近代化と現代の労働環境の整備につながっていくことになります。当時、女性の仕事は農作業が主だった社会背景を考えると、製糸場で働く工女たちの職場環境は、かなり恵まれていたといえるでしょう。

民営化後も、日本の製糸産業をリード

当初、官営の模範工場として開業した富岡製糸場は、1893年に三井家、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社と、経営母体がいく度か変わりましたが、一貫して製糸工場としての操業を継続。民営化後も器械製糸の技術革新に取り組み、国内の養蚕・製糸業を世界トップクラスの水準まで引き上げました。工場で一連の技術を習得した工女たちも出身地に戻るなどして各地の器械製糸場で指導にあたり、その技術を地域に広めることに大きく貢献しました。

また、国内で製糸工場の廃止や用途転換が進んだ戦時中も、富岡製糸場は製糸工場として機能し続け、空襲などの被害を受けることなく終戦を迎えています。戦中〜戦後しばらくは、兵役に就いた男性に代わって農村の労働力を埋める必要から工女数は大きく減少しましたが、繰糸機を増設することで生産量をカバー。その後も、最新機器の導入や工場設備の刷新を繰り返し、1974年には開業以来、最大となる年間 生産量(37万3401キログラム)を記録しました。

しかし、時代とともに絹織物(和服)の需要が減ったことや、1972年の日中国交正常化で中国産の廉価な生糸の流通が広まったことを受け、国産生糸の生産量は年々減少。国内の製糸工場が次々と姿を消すなか、富岡製糸場も1987年2月26日に操業を停止。115年にわたる歴史に幕を閉じることになったのです。

製糸場の閉場から、世界遺産登録までの経緯

富岡製糸場が操業を停止した後も、経営母体であった片倉工業は、工場を「売らない・貸さない・壊さな い」という方針を堅持し、繰糸所をはじめとする施設の維持・管理に専念。こうして片倉工業が保存に尽力し、開業当初の建造物群が良好な状態で残されたことで、地域の行政や市民レベルでも、その歴史的価値を守ろうという動きが活発化します。そして、1987年の閉場から17年を経て、ついに富岡製糸場は世界遺産の物件として正式登録。国内外にその名を広めることになったのです(閉場〜登録までの経緯は以下参照)。

【世界遺産に登録されるまでの経緯】

■1988年、市民レベルで製糸場の歴史を伝えていく学習会「富岡製糸場を愛する会」が発足。

■2003年、群馬県知事が富岡製糸場について「ユネスコ世界遺産に登録するためのプロジェクト」を公表。

■2004年、富岡製糸場の世界遺産登録に向けて、三者(県知事・市長・片倉工業社長)での合意が成立。

■2005年、富岡製糸場が富岡市に寄贈され、敷地全体が国の史跡に指定される。それにともない工場施 設の一般公開を開始。

■2006年、初期の主要建造物が重要文化財に指定される。

■2007年、群馬県内の養蚕業文化財とともに「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産の暫定リスト に記載。

■2013年、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の正式な推薦書が、世界遺産センターに受理される。これを受け、世界遺産委員会の諮問機関「ICOMO(イコモス)」から派遣された、中国国立シルク博物館館長の 趙豊氏が現地調査を実施。

■2014年4月に「登録」の勧告がICOMOSから出され、同年6月の第38回世界遺産委員会で正式に登録。同年12月には初期の主要建造物の一部が国宝に指定。

開業当初の状態で現存する国宝・重文指定の建造物

群馬県南西部を走る上信電鉄「西富岡駅」「上州富岡駅」から徒歩圏内に立つ「富岡製糸場」/Googleマップより

富岡製糸場に現存する、国宝・重要文化財指定の主な建造物は以下の通りです。

■繰糸所(そうしじょ/国宝)……女工たちが製糸作業を行っていた建物。長さ140メートル、幅12メートルの木骨レンガ造・平屋建て。

■東・西置繭所(ひがし・にしおきまゆじょ/国宝)……1872年竣工。生糸の原材料となる繭を保管する倉庫。長さ104メートル、幅12メートルの木骨レンガ造・2階建て。

■蒸気釜所(じょうきかましょ/重要文化財)……1872年竣工。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使わ れた。

■首長館・女工館・検査人館(しゅちょうかん・じょこうかん・けんさにんかん/重要文化財)…..1873年竣工。開業当初、工場で技術指導・監督にあたっていた外国人技術者たちの宿舎。

これら建造物は開業当初の状態でほぼ保存されており、繰糸所と西置繭所は建物の内部も一般公開されています(※)。こうして日本の近代化の基礎を築き、その歴史をいまに伝える富岡製糸場 ── まさに、日本が世界に誇る貴重な文化遺産・産業遺産として、いつまでも大切に受け継がれていくことを願うばかりです。

※2020年4月末時点の情報……感染症防止のため富岡製糸場は2020年3月29日から臨時閉場しています 。詳細は以下公式ホームページでご確認ください。富岡製糸場 / http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/

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